ここでは、現在日本に留学中の方や、現地で活躍する帰国留学生を紹介します。
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ここでは、現在日本に留学中の方や、現地で活躍する帰国留学生を紹介します。

文部科学省奨学生として北海道大学大学院医学研究科に留学(2002年から2009年)
日本はとても素晴らしい国です。私は、6年間を超える北海道大学での生活を通じて、日本の文化、人々、システムを学びました。また、私のような留学生や外国人に対して日本の社会が提供できることについても理解できました。もちろん、(誰もがそうでないように)日本という国も日本人も完璧ではありませんが、日本で学んだことは私の大きな財産です。このように貴重な経験を得られたことを、日本の納税者の方々、指導教授、大学で共に学んだ日本人学生や留学生の皆様に感謝します。この経験は一生忘れません。
日本に到着した瞬間から、感激の連続でした。その理由は、世界トップクラスのインフラストラクチャー、美しい景観、ほとんど渋滞のない道路だけではありません。空港、銀行、アミューズメント施設、ホテル、ショッピングモール、郵便局、レストラン、タクシー、電車、区役所など、あらゆる場所で一流のサービスが提供されていることは大きな驚きでした。日本の清潔さは群を抜いています。また、自然環境と社会環境には目を見張るものがあります。北海道の道路はほとんどすべてが素晴らしく整備されていて、トイレットペーパー完備の水洗公衆トイレが設置されています。また、昼夜を問わず、いつでも安心して外出できるのも嬉しいことでした。私は、スリがいるのではないか、という不安を感じたことはありません。警察官が武器を携行していないのも驚きでした。不要だから携行しないのです。また、歩道が広いので、歩行者と自転車がゆったりと通行できます。空気もきれいで、飲料水も透明でとてもおいしく、湖、池、川の汚染もありません。色とりどりの花が咲き、特に春には私の大好きな桜を楽しむことができます。ほとんどの家は庭付きで、丹念に手入れがされています。
外国での生活には、文化の違いや言語の壁による驚きや難題がつきものです。しかし、日本ではこのような心配はありません。日本人は、外国人に対して寛大で、日本にまだ慣れていないのだ、ということをよく理解してくれます。また、日本人はとても礼儀正しく、口論になっても丁寧な態度は変わらないので、あからさまな衝突はめったに起こらないか、あるいはまったく起こりません。
私は大学生活を心から楽しみました。ほとんどの場合、日本人はあらゆることをスケジュールに基づいて行います。実際私は、約束の時間から30分以上待たされたことはありません。万が一遅れる場合は、事前に知らせてくれます。北海道大学大学院医学研究科では、インターネットやビルのメンテナンス、電気保守などの予定は1カ月前に研究生全員に電子メールで通知されるので、各自が自分のスケジュールを調整することができます。
研究生は、パーティションで区切られたそれぞれのスペースで静かに研究や作業を行います。私は日本語があまり上手ではないので、日本人学生とはほとんど日本語で会話しませんでした。ただ実際には、まったく関わりを持たなかったわけではなく、「はい」(yes)、「いいえ」(no)、「たぶん」(perhaps)といった簡単な受け答えで意思疎通を図っていました。また、お辞儀、笑顔、穏やかな口調など、一目でわかるボディランゲージという方法もありますから、とても和やかな関係を作ることができました。天気がよい時期は、指導教授や仲間と野外でバーベキューをしたりピクニックに出かけました。これは、ジンギスカンパーティーと呼ばれていて、ラム肉、野菜、ラーメンを調理します。一緒にビールも飲みますが、アサヒ、キリン、サッポロ、サントリーが私のお気に入りです。
指導教授とは、非常によい関係を築くことができました。教授は、学術面だけでなく、研究科や管理上の仕事も任せてくれました。たとえば、日本とスリランカで、学会やトレーニングに参加する外国からのゲストをホスト役として迎えたときには、ホテルの手配やフライトスケジュールの調整を担当するなど、まるで自分が研究室の秘書のようだと思ったことも何度もありました。また、一緒に学んでいた学生を対象に、彼らの研究、プレゼンテーション、研究発表などについて指導や講義を行ったほか、指導教授が行う国内外でのプレゼンテーション用にスライドの作成も行いました。指導教授のスケジュールが過密で講義ができないときには、医学部生の講義を代行したこともあります。とりわけ医学研究科長のスピーチの校正をする機会に何度も恵まれたことは、忘れられない思い出です。
北海道大学での努力と苦労は大きな実を結び、論文審査のある学術専門誌に6年間で8つの研究論文を発表することができました。これには、指導教授もとても喜んでくれました。教授にはアジア地域を訪問するチャンスを何度も与えていただき、特にスリランカではコミュニティベースの調査を3回以上実施し、タイでは研究の成果を発表することができました。また、ヨーロッパにも何度も派遣していただき、研究発表に加えて、ILO(国際労働機関)、キュリー研究所、パスツール研究所、ジョン・スノー記念館、ジュネーブ大学、WHO(世界保健機関)など重要な国際機関をまわりました。このように数々のチャンスを与えてくださった教授には、深く感謝しています。指導教授とは、教授と生徒というよりは、友人同士のような間柄でした。
有名な日本学術振興会の奨学金を得て博士研究員として2年間務めた後、指導教授より研究科の准教授というオファーをいただきました。あまりにも素晴らしいお話だったのですが、これまでの経緯に基づいて熟考した結果、辞退させていただきました。日本を離れるということは、ここ数年で最も辛い決断でした。私は日本を自分の故郷のように思っていました。日本のシステムや生活にもすっかり馴染んでいたため、大好きな大学を離れることは簡単ではありませんでした。
教授のオファーを断った理由については、『JAPAN Lights and Shadows』(日本、その光と陰)という本に書きました。この本では、私が日本や他の国での生活から得た経験や想いを綴っています。日本で過ごした経験のある方が読めば、日本での思い出が蘇ることでしょう。また、この本は、現在日本で勉強している留学生や留学を検討している方にもお勧めします。他のどの本にも書かれていないことや日本の社会ではオープンに語られないことなど、日本の大学に関するパンドラの箱が開きます。また、日本のシステムのしくみや対応の方法もわかりやすく解説しているので理解が進むでしょう。書籍の詳細については、Webサイトhttp://www.japanlightsandshadows.com/をご参照ください。
指導教授、共に学んだ仲間、日本で出会い今では世界各地で活躍する友達のみなさん、素晴らしい時間と思い出に心から感謝を申し上げます。皆さんのことは一生忘れません。『JAPAN Lights and Shadows』には、日本という国と日本の皆さんに対する感謝が込められています。皆様、本当にどうもありがとうございました。乾杯!
『JAPAN Lights and Shadows』 http://www.japanlightsandshadows.com/

神田外語大学外国語学部国際コミュニケーション学科に在学中
「光陰矢のごとし」と言いますが、日本に来て4年になります。4年間は、喜びあり、涙あり、寂しさもありましたが、振り返ればこれらすべての感情がまるで昨日のことのようにはっきり思い出されます。
私は中国の大学で、日本語を専攻しました。日本語を専攻したいと思ったのは、日本の漫画がきっかけでした。『るろうに剣心』や『スラムダンク』などの漫画の主人公の姿がとても鮮やかで、日本語がわかったらどんなに楽しいだろうという単純な憧れから日本語に愛着を持ち始めました。「ある国の言葉と文化を勉強するには、自分でその国に行き経験しなければならない」と、ある学者は言っていました。そして中国にいる私にとって、今も昔も世界でトップレベルのハイテクノロジーを備えた先進国、日本で学びたいという意欲が日々膨らんできました。短い一生の中で、できるだけたくさんの体験をすることが人としての経歴になるのではないでしょうか。それで私は留学の道を決めたのです。しかし、日本に来る前に想像していた通り、留学の生活は決して容易なものではありませんでした。違う文化、食べ物、風俗、親のそばから離れて見知らぬ国での生活……これはゼロからのスタートです。
日本に来てからの生活は本当に大変でした。経済的にも、精神的にもそうです。日本に来てからというもの、寝る時間が遅くなってしまって、生活が大きく変わり不規則になってきました。食事すらきちんととれません。勉強と共に家族に負担をかけないように、アルバイトをしなければいけません。
一方、将来的に自分の夢を達成させるため、一生懸命勉強をしなければなりません。せっかく大金の学費を払ったのだから、勉強しないと、お金と時間が本当にもったいないと思います。しかしながら、大変な生活自体もたくさんの勉強になりました。もしもいつか自分の夢を実現できたら、今の努力は価値があると思います。

私は今、神田外語大学で勉強しています。大学での勉強はもちろんですが、授業だけではなく、もっと深く日本の文化や習慣、日本人の考え方を知ることが大切だと思っています。そのためには積極的にクラスメートと交流したり、学内や学外のいろいろな交流活動に参加したりしています。中国文化を日本のみなさんによく知っていただきたいし、日本文化をもっと多くの中国の国民に伝えて、仲良くなっていきたいと思います。学内の交流以外にも、アルバイトするときは、仕事だけではなく日本人とさらに深く理解し合って、日本のいろいろな文化と生活習慣と考え方を理解したり、社会体験をすることも大切だと思います。
今、一番関心のある言葉は「頑張ってね」という言葉です。この言葉には「一生懸命やって、絶対に成功を」という意味が含まれていて日本文化の特質を表した思想の一つだと思います。人々は互いに激励して、物事をやり遂げることができるようになります。簡単な言葉ですが、深い意味があります。勉強しているとき、アルバイトで疲れたとき、困ったときに学校の先生、店の先輩、知らないお客さんからも「頑張ってね」と励ましてくれたことで、心から、感謝の気持ちが膨らんできました。
これからもコツコツ地道に頑張ります。一日の寂しさは一生の幸せのためです。留学生活はこれからも続きますが、困難を一つひとつ乗り越え、目標に向かって頑張り続けたいと思います。
国学院大学経済学部に在学中
2008年4月に中国を離れ日本へ留学に来ました。この留学は私にとって大きなチャンスでした。あれから2年が経過し、言葉が全く分からなかった留学直後のころを思い出すととても感慨深いです。この留学は私に大きな收穫をもたらしてくれました。
どんな人であれ、一人で留学を成し遂げることは不可能でしょう。ここまで支えてくださった多くの人に感謝の気持ちでいっぱいです。言葉の壁にくじけそうになった時もありましたが、自分から踏み出せば世界が変わります。待っていても何もならないということや、人との出会いがとても勉強になりました。これまで2年間、あっという間でしたが学校やアルバイト、私生活を十分に満契できたと思っています。
この2年間、日本語学校で日本語を学び、たくさんの思い出ができました。授業は分かりやすく楽しく勉強でき、学校のみんなとディズニーランドや富士急ハイランドなどへ遊びに行ったことも忘れられません。くじけそうになった時も、負けそうになった時も、先生や親しいクラスメイトが暖かい言葉で励ましてくれました。奨学金をもらうこともでき、特に金銭面で大きな心配をすることもありませんでした。留学には学費や生活費などのお金が必要です。奨学金にはかなり助けられましたが、生活費はまだ十分ではありません。私は自立するために、自分の力で生活費を稼ぎたいと思っていました。しかし、アルバイトを探すなかで、最初は失敗ずくめでした。「あなたの日本語はまだまだダメですね」と言われとても落ち込みました。でも、このような失敗を繰り返したおかげで、私は一生懸命日本語を勉強しました。現在はお店のホールのアルバイトをしていて、お客様と直接会話ができます。
アルバイトのおかげで私は変わることができました。社会に出る前の私は半人前でした。なぜなら、私にとって仕事は自分だけできれば十分だという考えだったからです。このお店に入って、「チームワーク」を初めて意識し、助け合いの精神を学びました。例えば、後輩がミスした場合、後輩を教えた私が責任をとらなければならないことが最初は理解できませんでした。今の仕事を通して、「人を責めず自己を深く省みる」「仕事というものは、いくらできても一人だけでは無理だ」ということを学びました。経済情勢があまり良くないなかで、いま堅実な生き方とは何でしょうか。私は、人の力を借りることだと思います。これは自分自身が体験して学び得たものです。
私は今春、国学院大学に入学することができました。大学生になったのはとてもうれしいことですが、不安な気持ちもいっぱいです。日本語学校と大学の授業は違います。学生の国籍に関係なく授業は日本人と同じレベルで行われます。私はまだ大学のやり方に慣れなくていつも疲れてしまいます。英語の授業では、先生は日本人ですので英語力と日本語力が必要になります。つまり、留学生の場合は、二つの外国語を理解しなければなりません。このままでは悪循環に陥りそうで、先輩に悩みを伝えたりしました。
大学では、興味あるサークルに一つ入るつもりです。これからたくさんの人に出会い、友達を作ることが楽しみです。また、私はこの4年間でTOEICや簿記など資格を取ることを目指しています。大学生のうちに日本国内や海外へも旅行したいです。経済学科を選んだので、自分が学んだ知識を現在のような経済状況に少しでも役立てたいとも思っています。

大学生1年生の私にとって、世界はかなり広いですが、私なりの世界を作ってみたいです。日本に留学できたことは本当に幸運だと思います。未来に向け、大変なことがまだいっぱいあると思いますが、私はみんなの力を借りながら人生の道を進んでいこうと思います。

東京大学大学院新領域創成科学研究科サステイナビリティ学教育プログラムに留学(2007年〜09年)
人生を学校に例えると日本は私の好きな課目であり、日本からとても重要なことを教わりました。
私の名前はタヒラです。2009年にサステイナビリティ学修士課程を修了しました。日本に行くことは子供の頃からの夢でした。しばしば友人たちと、「この中の誰かが日本に行くことになったら他の仲間を一緒に連れて行こう」と誓い合ったものです。日本は教育先進国の一つであると同時に、歴史や伝統、文化を重んじ、笑顔を絶やさず人助けの精神を持った人々が暮らす珍しい国の一つです。私はそんな日本に留学する方法を模索していました。
そして願いはかないました。
しかし、留学初日からまるで別の惑星にいるかのように、日本はあらゆる面で私の国と違っていました。食べ物のせいで体重が2週間で5キロも減り、生き延びるためにそれまで口にしたこともなかったマクドナルドのハンバーガーを食べなければなりませんでした。ベランダでうるさく鳴くカラスとの闘いも毎日の日課でした。それでも日本で暮らし始めた頃のことを今思い出すととても幸せな気持ちになります。私は一歩踏み出すたびに多くのことを学びました。今では日本食が大好きです。
私が住んでいた江戸川台という小さくてかわいらしい町は午後6時を過ぎると全ての店が閉まってしまいます。遅くまで喧騒が絶えない都会出身の私は当初、静けさに順応することができませんでした。しかし、やがて安らぎと孤独を感じさせてくれるこの静けさが好きになり、自由を大いに楽しむようになりました。
大学では皆とても親切に助けてくれ、そうした中で勉強できることは大きな喜びでした。はじめてキャンパスに入った時、研究室を探しているうちに迷ってしまい、親切な事務官の方のおかげでそこへようやくたどり着いた時の大学の匂いを今でも覚えています。大学生活は多忙を極めながらもとても刺激的でした。できるだけ多くを学びたいと思いつつ、あまりのつらさに逃げ出したくなることもありました。私が最初に取り組んだ課題はグリーンケミストリーでした。徹夜になることもありましたが、やり遂げた時には自分を誇りに思い、本当にやる気になれば不可能など一つもないということが分かりました。

奇妙に聞こえるかもしれませんが、私は東京大学で初めて、地球が直面する環境の危機がいかに深刻であるかを理解しました。中でも衝撃だったのは、研究を通して自分の祖国が世界で最も汚染された国の一つだと知ったことです。それまでそのようなことは全く知らず、だからこそ、どうして自分はそうした事実を知りえなかったのかを明らかにするため研究に取り組みました。その結果、学校やさまざまなメディアを通じた国民への教育が不十分だということが分かりました。

現在、私はスイスに住んでおり、今すぐ帰ることはできないため遠く離れた地から祖国 アゼルバイジャンのために何かできないかと考えています。具体的には、論文を書くことで、祖国の環境が危機に瀕していること、そのことに注意を払わなければならないことを人々に伝えたいと思います。
私が日本で経験したことのほんの一部をつづってみました。それは貴重な時間であり、永遠の思い出です。日本でさまざまな国から来た多くの人たちと知り合い、友達もたくさんできました。それ以来私は、すべての人々に平和が訪れれば世界はもっと素晴らしいものになると考えています。異なる国籍の人々と一緒に勉強や作業をするなかで、人はみな同じだと気付かされたからです。
一時的とはいえ、日本の学界およびコミュニティーの一員になれたことは大きな喜びであり、そのことを誇りに思います。それは私にとって研究面でも私生活においても素晴らしい経験でした。東京の新鮮な朝の匂いや富士山の日の出、そして大好きな大学をなつかしく思います。

創価大学に在学中
私はメンナと申します。カイロ大学の3年生です。いま留学生として創価大学で日本語を勉強しています。
2009年の9月に日本へ来ました。最初から違和感や不安はまったくありませんでした。なぜなら寮のメンバーがすごく優しくて、仲間の輪に入れてくれたからです。それに大学で行われる授業や大学祭の準備で毎日忙しいからです。
大学祭の1か月前から喫茶店の準備やダンスの練習が始まりました。留学生で行う喫茶店の準備では、創価大学にエジプト人は私しかいなかったので北米のグループに入りました。自分たちで喫茶店の看板のデザインを考えて描きました。

喫茶店ではそれぞれのグループが自分の国の有名な料理を出します。私のグループの喫茶店ではたくさんホットドッグを売ることができました。北米グループのほかにもさまざまな国や地域のグループがありました。例えば、ロシアグループやヨーロッパグループなどです。ダンスの練習も楽しかったです。でも私は恥ずかしがりやで、練習はしましたが大学祭の時は恥ずかしくて出られませんでした。
勉強も忙しかったです。前の学期は新しい文法や単語もたくさん勉強しました。それに、聴解の授業もありました。毎月漢字のテストも行われました。今学期は前学期の内容に加えて日本人の学生と同じ「音声学」と「日本語教育」という授業も取っています。この2つの科目を選んだ理由は、「音声学」で日本語の自然な発音を学びたいと思ったからです。「日本語教育」は私自身の日本語の勉強にもなると思いました。ほかには「日本文化体験」という授業もあります。その授業では毎週違うことをやります。例えば、着物を着たり、書道をしたり、日本の伝統的な楽器を弾いたり、茶道を習ったりしました。

学校の友達とはいろんな話題で話し合います。例えばエジプトについて興味を持っている人からは、やはりエジプトの習慣やエジプト人の性格などについて聞かれます。それに「なぜスカーフをかぶっていますか」と聞かれたこともあります。
2月になった時、大学の休暇で寮にいる半分のメンバーが帰国しました。寮が静かで寂しくなったので、私もエジプトへ帰りたいと思いましたが、その2か月、旅行することにしました。大阪、京都、奈良そして九州へ行きましたが、それぞれの街に特徴がありました。大阪の人は東京の人と比べて、明るいし、気さくで自然な感じがしました。一目ぼれしたのはやはり京都です。東京とは違う雰囲気で、お寺も神社もあって、本当に見ていて楽しくなりました。その後は奈良へ行き、たくさんの鹿と遊ぶことができすごく楽しかったです。
関西だけでなく九州にも行って来ました。九州では福岡県でホームステイをしました。ホストファミリーはすごく優しくて、長崎県や佐賀県など福岡県の周りの県へも連れて行ってくれました。その家族のおかげで楽しい毎日を過ごせました。旅行だけでなく日本人の家庭を初めて体験できたのは、私にとって貴重でした。休暇を最高に過ごしたので、学校が始まってからは私も活力を持って勉強しています。
この一年間で責任感が強くなり、ますます自分の国を好きになりました。また、家族のおかげで決心のゆるがぬ留学生活を送ることができ、家族に支えられた一年間でした。それに外国で生活をするといろいろなことをその国から学べ、またそこから自分の国を眺めてみると今まで気づかなかったさまざまな面が見えてきました。私にとってとても貴重な1年間になりました。

神田外語大学外国語学部国際コミュニケーション学科に在学中
私は通訳者になる夢を持って、日本にやってきました。日本に来る前、日本での生活を何度も美しく思い描いていました。しかし、やはり理想と現実は違うものです。日本の生活はそう簡単ではありませんでした。留学生の私は、勉強とアルバイトを両立しなければなりません。それらのバランスをよくとらなければ生活が崩れてしまいます。
日本語学校で勉強を始めた時、日本語が少ししかわかりませんでした。先生とのコミュニケーションがうまく行かず、授業にも慣れませんでした。生活のストレスや勉強のストレスがたまって、悩みだらけで、心の苦しさは死ぬほどでした。幸い、友達がいつもそばにいてくれ、励ましあったり、助けあったり応援してくれました。いくら落ち込んでも生活を続けなければなりません。頑張るしかないとわかっていました。「継続は力なり」ですから。

今、神田外語大学で自分の好きな科目を勉強することができて、とてもうれしいです。この大学に入ったからこそ、夢に一歩近づけたと感じました。将来の希望の光が見えるように頑張りたいと思います。苦しい時もあると思いますが今の私にとっては、どうすれば苦しみに耐えられるのか、どんな意識を持ってこれからの生活に向き合えばいいのか、そういうことが大学4年間の課題です。頑張りながら答えを見つけて、成長していきたいと思います。

将来は立派な通訳者になりたいと思いますが、夢を実現するまでには、まだたくさんの努力が必要です。これからはここで学んだことを心のよりどころとして、夢の実現に向けてしっかりと歩いていきます。私は、夢を持つことだけですごく幸せだと思います。将来のことは誰も予測できません。一番大切だと思うのは夢を追いかけるプロセスです。自分が努力している姿こそ、人生の宝です。

文部科学省奨学生としてお茶の水女子大学大学院博士後期課程 に在学中
今日は私が出会った日本、私の日本語に寄せる思いを語りたいと思います。私は中国の大連外国語大学で日本語を専攻し、在学中4回日本を短期訪問することができました。1回目は日本経済新聞社主催の全中国日本語弁論大会 に出場するため、初めて日本を訪れました。初めての日本は私にとって、とても新鮮で驚きの世界でした。未だに当時の感動と驚きを忘れられません。2回目は第三回中日友好親善大使論文大会 に優勝し、徳島県に2週間滞在し、県庁、市役所、徳島大学、鳴門教育大学を見学しました。3回目は、提携校である札幌北星学園大学を友好訪問し、東アジア交流会に参加しました。4回目は、日本東方通信社主催の第1回日中友好の声全中国日本語弁論グランドチャンピオン大会 で優勝し、日本に招待されました。
4回日本を訪れ、自分の目と耳と足で本当の日本を体験するたびに、私の日本に対する感動と思いが強くなる一方でした。すばらしい生活環境はもちろん、学習環境、常に実感できる先進国としての姿、人々のマナーと礼儀正しさ…短期訪問ではありましたが、私の日本に対する憧れを止めることができませんでした。人々の考え方もマナーももっと学びたいと決心し、海を越え、日本に留学にきました。日本へ来てもうすぐ3年になりますが、日本は第二の故郷として知れば知るほど愛着が深まります。「好きこそものの上手なれ」。日本語が好きだからこそ、くじけそうになっても、立ち直りまた自信をもって一生懸命頑張り続けることができました。日本で生活し、日本人と交流し、その文化に触れているうちに、いつの間にか、日本とは強い絆を結ぶことができました。
第1回日中友好の声全中国日本語弁論グランドチャンピオン大会 (主催事務局:東方通信社)
第1回全中国日本語弁論大会 (『日刊ベリタ』2006年7月24日)
学部時代、日本語を専攻したいと思ったのは、日本のドラマやアニメーションがきっかけでした。かわいいドラえもんやハンサムな木村拓哉の姿がいかにも鮮やかで、日本語が分かったらどんなに楽しいだろうと言う単純な憧れが強かったのです。段々日本語に愛着を持ち始めてからは、世界トップレベルのハイテクノロジーを備えた先進国日本で学びたいという意欲が強くなりまいた。そして、日本の大学院で日本語教育を選んだきっかけは大学時代の恩師の講義のおかげでした。恩師のような教師になりたいと今も思っています。

今、私は中日の比較研究を行っています。分野は談話分析です。日本にいる3年間、指導教員の佐々木教授のもとで勉強させていただきました。佐々木先生には、現在に至るまで日頃より研究計画および内容について終始細やかなご助言、ご指導をいただきました。修士論文の構想の段階から、最後論文として仕上げるまで、長い研究の道のりの間、常に好意的なコメントや欠点の指摘と、その改善方法を示していただきました。佐々木先生に鍛えられたおかげで、今博士後期課程で研究を続けることができます。
また、研究の面だけではなく、生活の面で挫けそうになった時、病気になって苦しんでいる時など、いつも暖かい励ましをいただき、異国での研究活動の大きな励みになりました。ゼミメンバーの皆様には日常のゼミでの議論を通じて鋭いコメントや多くの示唆をいただき、私の研究活動の支えと大きな活力となりました。
留学前、一人の学習者に過ぎなかった私が、留学後たった半年で日本語を研究する研究者となったことに大きなギャップとプレッシャーを感じました。日本語を使うということは言うまでもなく、日々使用している日本語の中で、問題点を発見し、それを論文にまとめるということが最初はとても難しかったです。学部の時は教えてもらったものを一通り覚え、それを実際の生活の中に活かすということだけでしたが、お茶の水女子大学の大学院という高い専門性が求められるアカデミックな学習環境の中で、自分の視点や意見を述べたり、コメントしたり、議論の輪に積極的に参加できるようになるまでには2年という期間が必要でした。私にとって、今の環境は研究に最高の環境であると実感しており、前向きに研究を進めています。
私には、小学生の時から先生になるという夢がありました。しかし、どちらかというと明確な目的意識を持っていなかったと反省しています。日本に留学し、教育学を専門に研究を進める一方で、語学学校で日本人に中国語を、中国人に日本語を教えています。教育現場に立って言葉を教える中で、言葉について日々新しい発見をしています。日本語教育の現場において楽しいことがある半面、いろいろな問題もかかえています。中には、親の仕事の関係や国際結婚でやむを得ず日本で勉学を進めなければならない中国人の子供たちがたくさんいます。親には仕事であまり会えない状態、友達も親戚もいない、しかも言葉も通じない外国で子供たちは周りの人には言えない悩みや不安を抱えています。子供たちが家庭のことや自分の悩みについて話してくれるのを聞くと、教師というのは時には知識を伝える先生の存在、広い心を持ったお母さんのような存在、何でも気軽に話せる親しくて優しいお姉さんのような存在、困っていることの相談に乗る心理カウンセラーのような存在、時には一緒に楽しめる友達のような存在など、人にとって様々な役割を果たす大事な存在であることが分かりました。
教師という職業は、教えることを通じて、学生に役立つ知識を伝えるだけではなく、自分の考え、体験なども学生と分かち合うと同時に、学生からもいろいろ刺激を受けるように感じます。そして、共に授業を作り上げていく中で、お互いの心の交流、人と人との心の絆を、よりいっそう深めることができるのです。そこに、自分の生きがいを深く感じました。
藤野先生を称えた魯迅先生の例のように、恩師から得た影響を語り、恩師に感謝し続ける例が数多くあります。
私も一人ひとりの生徒さんの人生を変えるような大きな影響力を持つ教師になりたいと誓い、勉学に励んでいるところです。

人生にはいろいろな出会いがあります。ここでは日本での出会いの中で、私が印象深く感銘を受けたホームステイの家族について紹介したいと思います。地元の大連で出会った日本人の友人のご家庭に約1年間ホームステイさせてもらいました。1年のホームステイは私の日本での生活において、とても意義のある1年でした。「言葉の壁」を乗り越えただけではなく、日本文化についても学べました。ホストマザーは日本の伝統文化に造詣が深い方で、私に着物の着方や生け花についていろいろと教えてくださいました。それだけではなく、私の入学式や卒業式にお祝いをしてくださったり、今でも私が異国で寂しい思いをしないように私の日本での生活を全面的にサポートしてくださいます。毎回電話するたびにホストマザーから言われる一言、「いつでもきてください。待ってます。」を聞くと、熱いものがこみ上げてきます。

外国で帰る家があることは、とても幸せなことです。支えてくれる家族がいることは、とても素敵なことです。寂しい異国での生活が心強くなります。国と国には国境がありますが、人間の心には国境はありません。国レベルの相互理解や友好交流も極めて重要なものですが、国民と国民の交流つまり民間レベルでの草の根の交流が続くことこそ、本当の意味での交流ができると思っています。日本語には「一期一会」という言葉がありますが、日本の家族との出会いは私にとって大きなプレゼントで、大きな財産です。この家族の愛を大切に持ち続けていきたいと思っています。
2010年3月にお茶の水女子大学修士課程を卒業し、継続して4月に博士後期課程に進学し、研究を続けています。また、非常勤講師として東京の語学学院で中国語と日本語を教えています。活気溢れる実際の教育現場での教育経験を生かして、その成果を博士論文にまとめていきたいと思っております。自分の研究と実際の教育現場での経験を合せて、日々中日の言葉のニュアンスの違いと文化の違いを考え、確かめながら周りの人たちに伝えています。将来は、日本で博士号を取って先生になりたいと思っています。研究という道のりは長くて辛いですが、博士号を取るまで精一杯頑張っていきたいと思っています。

文部科学省奨学生として香川大学に留学(2002年〜2007年)
私は日本政府の奨学金を得て、2002年から2007年まで日本に留学していました。私の留学中の体験を今日皆様にお伝えできることをたいへん嬉しく思います。
私は文部科学省奨学生として香川大学に留学しましたが、その間、高松市で生活し、たくさんの思い出を作りました。高松は私にとって第二の故郷です。
日本を離れてから2年7か月しか経っていないのに、もうずっと以前のことのような気がします。本当にあったことなのかしら、とさえ思えます。
愛媛大学大学院連合農学研究科(香川大学、愛媛大学、高知大学が連携して構成している博士課程)を修了してからそろそろ3年になりますが、あのすばらしい日々の記憶は今も鮮明です。
帰国のための荷造りをしていた日のことは、今でもはっきり思い出すことができます。あの時、「もう5年も経ったの?」と自分に問いかけたものでした。香川大学大学院農学研究科生物資源利用学専攻の機能分子化学研究室で、希少糖に関する研究を始めたのがつい昨日のことのように思えます。

私はシリアから日本に来るまで、まったくといっていいほど日本での生活について知識がありませんでした。大多数の中東の人々と同様、私もこの極東での暮らしについては漠然としたイメージしか持っていませんでした。
修士号と博士号を取得するために香川に長期間滞在しようと決心したときは不可能のように思えたし、ワクワクする気持ちと同時に恐れや心配もありました。しかし、川浪康弘先生が指導教官であったことは、私にとってたいへん幸運だったと思います。川浪先生からたくさんの助言と励ましをいただいたおかげで、日本での生活や研究が予想していたよりスムーズに進みました。

また、大学と学生団体が歓迎会、お茶会、文化的活動など、親睦の場をたびたび設けてくれたので、そこで世界各地から来日した人たちと知り合うことができました。
日本を並はずれた国にしているのは、この国の人たちです。私はすばらしい日本の友人に恵まれました。本当に心の美しい人ばかりで、こうした方々と知り合いになれたことを光栄に思います。彼らとの思い出は、これからも大切に胸にしまっておくつもりです。私は友人たちと一緒に日本国内のいろいろな場所をたずね、その土地の人々の生活や文化についてたくさん教わりました。
責任感、礼儀正しさ、規律、時間厳守、勤勉、年長者に対する敬意、美しさの価値といった日本人に典型的な特徴全般を理解することによって、私は日本文化から精神的に非常に大きな影響を受けたのです。
日本での日々の生活にまったく問題がなかったと言えば、それは嘘になります。確かに何度も困難にぶつかりました。実際のところ、私の日本での生活は、問題なくうまくいった部分もありましたが、乗り越えるのが困難な部分もありました。
日本の夏の湿度の高さは何とか我慢できたものの、アラビア語を母国語とする私にとって日本語はこの国で最初にぶつかった一番高いハードルでした。また、来日して最初のうちは妻として、母として、また研究生として、次々に直面する義務を果たそうと毎日必死だったので、(ときどき)ストレスを感じました。
あの頃はいつも、なんと忙しかったことでしょう!

さまざまな困難もあったとはいえ、やはり日本での楽しい思い出についてお話したいですね。そこで、香川に関する物の中で私が一番好きだった物についてお話したいと思います。
来日した当初、私はまったく日本の食べ物になじめませんでした。香川は讃岐うどんで有名な所で、県内各所のうどん店のメニューには実にさまざまなうどんがあります。
でも私は最初、うどんが好きではなかったのです!柔らかくて味のない食べ物だと思っていました。でも今では、生粋の讃岐人と同じくらいうどんが好きです。私が思うに、讃岐うどんは日本で最高の食べ物と言って間違いないでしょう。
もちろん、うどん以外の健康によい日本の食べ物、おにぎり、お好み焼き、すし、たこ焼き、やきとり、鍋料理なども忘れられません。
食べ物の話をしたら、お祭りの話もしなければなりません。香川のある四国では、至る所でお祭りが開かれているからです。
私は日本の伝統や文化に魅了されましたが、なかでも日本の最も重要な宗教的祭礼の行事である「お盆」、すなわち故人(亡くなられた方)を祭る習慣に興味を引かれました。
日本人が故人に対して崇拝の気持ちを表すということは立派なことであり、尊敬の念を覚えます。日本人が故人に対して祈りを捧げる時に立ち止まり、手を合わせ、目を閉じておじぎをする姿を見かけるたびに、すばらしいと思っていました。
私が好きなもう一つのお祭りは、阿波おどりです。阿波おどりは、毎年お盆の時期に徳島で開催される盛大なお祭りです。色鮮やかな衣装をつけたたくさんの踊り手がエキサイティングな歌に合わせて踊るので、見ていて本当に楽しいです。
香川にも活気あふれる夏祭りがたくさんあります。その一つ、さぬき高松まつりは、たいてい瀬戸内海の絶景を見渡せるサンポート高松で開催されますが、美しい踊りのほかに花火大会もあります。
私が日本にいた時、「シリアには四季があるのですか」とよく尋ねられました。私は「シリアにも四季がありますが、日本ほどはっきりしていません」と答えていました。
日本には驚くほどすばらしいものがたくさんありますが、なかでも日本の春はサクラの季節なので、ずっと忘れられないでしょう。日本では春になると、年齢を問わずあらゆる階層の人々が近所でサクラの見られる場所にどっと繰り出し、春の初めの花盛りを、そして何か月も続いた冬の終わりを、「花見(花を観賞すること)」というかたちで祝うのです。
私の一番好きな季節である春の次に一番嫌いな季節である夏がやって来ますが、日本では4月の末の数日間と5月の最初の数日間が休日になっています。夏の到来をこのようなかたちで迎えるのが本当に楽しみでした。この楽しい期間は「ゴールデン・ウィーク」と呼ばれていますが、一人娘ナヤが来日後の最初のゴールデン・ウィークに生まれたので、私にとってゴールデン・ウィークはひときわ感慨深いものがあります。
次に秋が来て、木々の葉が紅葉し、次々に落ちていきます。子供はもちろん大人も、秋の散策に出かけ、足元の落ち葉を踏みしめてカサコソという音を聞くことほど心地よいことはありません。
香川での生活は、本当に刺激と楽しみにあふれていました。香川で過ごした年月を思い出すたびに、特別な喜びと限りない愛で胸がいっぱいになることでしょう。このたぐいまれな国で自分がたどった道のり、一番大切な経験の数々を思い出すと、いつも目頭が熱くなります。日本で過ごした一日一日が、私の人生におけるかけがえのない機会でした。
シリアに帰国した後、私はダマスカスにある日本の駐シリア大使の公邸に招かれ、日本の大学から帰国したばかりのシリアの留学生を祝うレセプションでスピーチをしました。
また、日本大使館からのご招待に応じて、シリアのアレッポ大学にある日本語センターでガイダンスレクチャーを行いました。そこで研究提案書の書き方について話をしたほか、日本の文化や私が直面した問題や課題、さまざまな期待などについて話し合いました。
その上、再び日本を訪れる機会に恵まれました。2008年11月に香川で開催された第4回国際希少糖学会のシンポジウムで私の経験を発表してほしいというご招待を受け、再び来日が実現しました。それは私にとってまたとない「里帰り」の機会でした。

日本政府に心からの謝意を表したいと思います。日本政府が文部科学省奨学金を支給し、博士号を取る機会を与えてくださったおかげで、私は日本ですばらしい時を過ごし、知識や情報だけでなく友人も得ました。
また、文部科学省並びに在シリア日本国大使館、文化セクションのスタッフの皆さん、そして、私の帰国後も連絡を絶やさず、役立つ情報が詰まったメールマガジンをお送りくださる日本学生支援機構(JASSO)留学生事業部交流事業課のスタッフの皆さんに、心からの感謝の気持をお伝えしたいと思います。

文部科学省奨学金により日本語・日本文化研修留学生として奈良教育大学に留学(2006年〜2007年)
私が日本に興味を持つようになったのは、私が子供の頃、当時日本語を勉強していた従兄弟に日本や日本文化について色々教えてもらったからで、大きくなったら日本へ行ってみたいと思っていました。高校を卒業した時、将来についていろいろ混乱していたところ、その従兄弟の勧めもあり、日本語を勉強することに決定しました。日本語を始めた時、日本語の中で3種類の文字(ひらがな、カタカナ、漢字)が使用されることが分かり、難しいと思ったこともあります。勉強を続けると、日本語における語順の働きは私の母語であるヒンディー語と全く同じことに気付き、興味が沸いてきました。それだけではなく、漢字の導入後、先生にそれぞれの漢字にはそれぞれの意味が盛り込まれていると教えていただき、それを自分で勉強することによって新鮮な楽しみを見出すことができました。
私は日本語の3年間の勉強が終了した後、大学で修士に入学する頃に文部科学省の奨学金試験が行われ、幸いなことに日本の奈良教育大学で一年間国費留学生として勉強することになりました。その一年で私は、日本で様々な所を旅行したり、日本の3つの大きな芸能である能、歌舞伎や文楽を鑑賞したり、祇園祭などを見たりしました。一年間で色々な国の人々と友達になり、色んな思い出を作ることができました。日本では、世界遺産である奈良大仏や京都にある清水寺などを見ることができて、日本の文化や伝統への理解が深まりました。インドにいる時に勉強していた日本とぜんぜん違う日本のイメージが印象に残りました。日本滞在の時、日本人がとても親切でやさしく扱ってくれたので、温かい感じがしました。
奈良で過ごした一年の中で、一番印象的だったのは、先生や留学生たち皆との一泊二日の愛媛県の旅行でした。愛媛県は3000年の歴史を有する道後温泉で有名な町ですが、そこで初めて温泉に入り、日本の文化や伝統を直接肌で感じることができました。愛媛県に到着後、先生や友達と一緒にご飯を食べながら、SMAPの「世界に一つだけの花」などカラオケも歌いました。日本は特別な文化と仏教信者が多いと伺いましたが、愛媛県でそれを実感できました。愛媛県で松山城も見学しました。
留学中、奈良大学の寮に滞在していた時、私たち留学生は毎日のように、大学のグラウンドでサッカーをしていました。ある日、サッカーをしていると、ドイツ人の友達からのシュートが目に当たり、すぐ倒れ、眼鏡も割れてしまいました。一緒にサッカーをしていた留学生と日本人の友達にお医者さんの所まで連れて行ってもらいました。異常はありませんでしたが、目の近くが腫れたせいで1週間くらい右目でよく見ることができませんでした。そういうことがあってから、ドイツ人の友達がそれ以降サッカーをやめてしまったのは残念です。
また、日本で面白いと思ったことが一つあります。それは自転車の数と自転車が大人にも人気があることです。私が住んでいる町デリーでは、自転車は子供が乗る物とか所得の低い人が通勤のために使用するものだと考えられています。大学生はほとんど使いません。しかし、日本へ行った時、大学で自転車が多く使われているのを見て驚きました。日本では通勤に自転車を使う人も少なくありません。それで、私も一台中古の自転車を買い、初めは乗れませんでしたが、何回も乗った後、乗れるようになりました。毎日散歩の代わりに自転車に乗って運動をしていました。買い物に行くとき、また友達とどこかへ行くときも便利でした。しかし、インドに帰国後、自転車に乗れなくなり、とても不便です。

それ以外にも、私は奈良全地域スピーチ大会に参加し、「母語を大切にしましょう」というテーマでスピーチをし、優勝することができ、また、それが奈良教育大学からも評価され、修了書と別に表彰書までいただいたことは私の人生の忘れられない思い出の一つになっています。
インドはBRICSの一角として脚光を浴びるようになってから早や6年以上の月日が立ちます。インドは世界経済に大きな役割を果たすことが期待されています。私が日本から帰国した時、日系企業のインドへの進出が著しい反面、日本語を仕事上で使えるインド人が少数でした。文化と言語も違う国で日系企業は様々な問題に直面していることが大半でした。そういった事情もあり、日本語を使いながら、日系企業に役立つことができる仕事をすることにしました。現在DELOITTE(トーマツ監査法人)で日系企業のインドへの進出をサポートさせていただいています。主な仕事は、日系企業に対してインドへの設立サポートをはじめ、複雑と言われるインド税務法に関するアドバイザリー、監査といったサービスを提供することによって日系企業のインドビジネスの成功に貢献することです。将来の目標はインドと日本の信頼関係を更に向上させるために努力することです。そのため、日本語をもっとインド人に知ってもらおうと思い、自分が勉強した日本語学校で日本語も教えています。
外国語を習う上でその国の文化も知っておく必要があると思います。インドで日本語を勉強していた時、日本の文化や伝統について色々学びましたが、それを一度自分の目でも見たい気持ちがありました。奈良教育大学を選んだ理由は、奈良が昔から日本で最も歴史的かつ伝統的な町であり、日本の文化がたくさん残っている所だからでした。
日本に一年間留学したおかげで、インドでいい仕事を見つけることができ、現在日本語を使いながら、日系企業のインド進出をサポートしています。そのほかに、インドでできるだけ日本語を多くの人に知ってもらおうと思って、自分の後輩や日本語を勉強している学生に対して日本の文化や日本語に関する講義も行っています。日本へ行って留学できたことが今の生活に役立って嬉しい限りです。将来、インドと日本の関係がもっと深くなるように自分も貢献できれば幸いです。

文部科学省奨学生として東京農工大学大学院農学府国際環境農学専攻植物遺伝学・生物工学研究室に留学(2003年〜2008年)。2005年に修士号、2008年に博士号を取得。
私が文部科学省の奨学金で日本に留学することを決めたとき、日本の文化や食べ物、日本人に関する知識はほとんどありませんでした。また、その当時、米国のパーデュー大学に留学するという選択肢もあったのに日本に行くことを決めた私に、なぜ米国ではなく日本を留学先に選んだのか、と聞く友人もたくさんいました。
2003年3月16日、私を含めた計10人のアフガニスタン留学生はカブール国際空港を出発。翌17日に成田国際空港に到着し、東京農工大のカムラさんの出迎えを受けました。カムラさんは日本とはまったく異なる文化圏から来た私たちの様子に興味をそそられたに違いありません。とても親切な方で、東京農工大の小金井キャンパス内にある小金井国際交流会館に案内してくださいました。私たちアフガニスタン留学生に対するカムラさんの思いやりに満ちた態度の中に、日本人のすばらしい一面を見ることができました。夕方、カムラさんは私たちの買い物にも同行してくださいましたが、そこでさっそく文化や食べ物の違いから生じる問題にぶつかりました。私たちイスラム教徒は、豚肉は絶対食べませんし、牛肉、鶏肉、羊肉もイスラム教徒が処理したものでなければ食べません。結局、パン、卵、ヨーグルト、野菜を買いましたが、カムラさんは私たちの文化や宗教のことを知らないので、不思議そうな顔をして、なぜ肉を買わないのかと私たちに尋ねました。そこで理由を説明すると、納得していらっしゃいました。
私たちは次第に、寿司、納豆、豆腐、てんぷら、そばといったおいしい日本の食べ物に慣れていきました。これらはいずれもイスラム教で食べてもよいことになっている食べ物です。イスラム教のしきたりに従って処理した肉を売っている店も何軒か見つけました。この場をお借りして、カムラさんへの私たちの深い感謝の気持ちを述べさせていただきたいと思います。
日本語には、英語のアルファベットはもちろん、アフガン語の文字ともまったく異なる3種類の文字(ひらがな、カタカナ、漢字)があるので、私たち留学生にとって日本語の学習は新鮮な驚きでした。ひらがなとカタカナは2週間で覚えましたが、漢字を覚えるのは大変でした。でも、日本語教室で半年間学んだおかげで、日本で何とか暮らしていけるだけの言葉を覚えることができました。馬場先生をはじめ、日本語教室の先生方にお礼を申し上げたいと思います。

それから、平田豊先生のご指導の下、植物遺伝学・生物工学研究室で研究を始めました。カブール大学で11年間講義を行ってきたとはいえ、どのように先端技術を用いて実験を行えばよいのかわかりませんでした。しかし、平田先生や研究室の諸先輩方の丁寧なご指導に助けられて、徐々に新しい技術にも慣れ、多くの実験手法や実験プロトコールを習得して、独立した実験を何度も実施できるまでになりました。また、研究室のご支援により日本各地を訪れたので、日本に関する知識も増えました。ここで平田先生に、私の心からの感謝の気持ちを述べさせていただきたいと思います。
私はこの日本で大切な娘も授かりました。名前はHadia Yousofzai Kahkashan。2007年12月6日に、東京都府中市の東京都立府中病院で生まれました。今ではとても上手に日本語を話しています。
最後に申し上げておきたいのは、国際社会の平和を実現し、人々が本当に幸せな生活を送れるようにするには、異なる文化の理解が欠かせないということです。

文部科学省奨学生として、京都工芸繊維大学応用生物学課程に留学(2002年10月〜2006年3月)
現職 ベトナムのカントー大学理学部生物学課程に講師として勤務
私はベトナムの小さな村で生まれ、戦後の厳しい状況の中で子供時代を過ごしました。そうした状況の中で、先進国に行けばもっと高度な研究ができると思い、そのチャンスをつかもうと勉学に励みました。カントー大学で学士号を取得した後、この大学で助手として働く機会を得ました。私の希望が現実のものとなったきっかけは、2002年の初めに京都工芸繊維大学准教授の亀井加恵子先生にお会いしたことです。先生はその時、京都工芸繊維大学とカントー大学の交流を促進するコーディネーターとして私の大学に来られました。亀井先生が来校されてから、私は京都工芸繊維大学の博士課程に3年半の予定で留学することを決意しました。
多くの寺院と仏塔がたたずむ、平和で静かで美しい京都は、季節によって絶えず移り変わる表情を見せ、私の心に忘れられない印象を残しました。春には高野川沿いと清水寺を中心に桜の花が咲き誇り、冬には降り積もる雪の中で金閣寺(きんかくじ、金色の歴史的建造物)がなお一層その輝きを増し、夏には夜空を彩る印象的な花火が、そして秋には街路樹が色を変えていく様子が見られます。こうしたイメージがすべて、何枚ものすばらしい絵のように私の心に焼きつけられました。そのほかにも、京都工芸繊維大学の博士課程で研究生活を送りながら、日本人の友人や各国の友人を通じて、日本だけでなく他の国々の人々、文化、国家についても学ぶ機会を得るなど、私の人生にとって有意義な経験をこの地で積むことができました。私が日本で一番好きだったのは、日本の人たちです。みんなとても親切で、何か困ったことがあると、喜んで助けてくれました。たとえば、ある日、大学から宿舎への帰り道で迷ってしまい、友人に連絡するすべもなく途方に暮れていると、通りがかりの人が声をかけてくれました。その方は私の状況を理解すると、何のためらいもなく助けてくださり、おかげで私は宿舎に戻ることができました。また、道端で私の自転車が壊れた時には、ご年配の方が一生懸命修理を手伝ってくださいました。こうしたことは小さな出来事かもしれませんが、私の心を温め、母国から遠く離れた土地で生きていくエネルギーを与えてくれました。
京都工芸繊維大学では、指導教官である亀井加恵子先生の熱心な指導の下で勉強することができ、たいへん幸運でした。先生はいつも私のレポートを入念に校正し、句読点の間違いをすべて訂正してくださいました。それが大きな励ましとなり、さらに研究に打ち込むようになりました。現在私は、先生が私にしてくださったように、熱意を持って学生たちに知識を伝えています。
現在、カントー大学理学部生物学課程で講師をしていますが、京都工芸繊維大学で始めた「ベトナムのメコンデルタ地域に生育する植物の抽出物由来抗マラリア成分の検出(Screening of Antimalarial Compounds from Plant Extracts in the Mekong Delta of Vietnam)」のプロジェクトは継続しています。留学中に日本で得た経験と知識をもとに自分の仕事で確かな実績を上げただけでなく、様々な専門領域にアイディアを提供しています。私は、世界の中で日本が理想的な留学先だと皆に知ってもらうことが、私たち元留学生の役目だと理解しています。